うまくない人の詩

ちゃんと写真始めようかなと思って約2年半が経つ。

2年半で感じたことはとてもたくさんある。写真を撮ることそのものに関しても、写真撮影以外で写真にまつわることについても。

写真と文章とを同時にすること自体についても、やってみると結構難しいもので、要するに両方のカテゴリーから嫌がられるんだろうなと感じることもある。そりゃそうですよね。両方できますと言うことで、他方のカテゴリーからそのカテゴリーを侵食しに来ているわけだから。その道で長くやっている人から「何だこいつ」と思われるようなことも正直あった。それでもその不機嫌さをなかったかのようにスルーする術も身についてしまった。

何でもそうだけど100%受け入れますというものはなく、どこかに逃げ道があると思ってやっている。例えばだけど、ある企業の商品がどこかの地方で不買運動が起きたとして、でもそれをいいという地方だって存在しているから、どこかで拒否られたとしても諦めることもない。そうはいっても時間とは有限で、当たり前だけど私は以前よりは残り時間が少ないからのんきには過ごせないけど。

写真撮影そのものについては、たぶんこの先も「うまい写真」って絶対に撮れないんだろうなと思っている。ここで言うところの「うまい写真」とは、セオリーとしてうまい写真のことで、特にポートレートは私の場合どうしても、撮っているときはセオリーよりもエモーションの方が勝っちゃうんだなと苦笑いをしている。本当はそれではいけないのですが。

これが動かないもの、例えば料理とか風景とかだったらちゃんと周りを見れるのに、やっぱり人を撮るともなるとどうしても相手のことも考えるし、また集団で撮っているときはついつい周りの人にも気を遣う。写真撮るときに気なんか遣ってる場合じゃないじゃんと言われればそれまでだけど、なんだろう、そこまでエゴイストになりきれないのかもしれない。というととても綺麗に聞こえるし「何言ってんの違うでしょ実際あなたエゴイズムの塊じゃないですか」って言う人もいると思うけど、自分が撮った写真を見ると「ああここ遠慮しちゃったなーー」みたいなものが垣間見えてきて、またやっちゃいました的な後悔が沸々としてくる。そうかと言って人を傷つけながらぐいぐい進むくらいなら、それを俯瞰して眺めている方がまだましだと思っているので振り切れないことも多い。

写真を一緒にやっている人からは「河瀬さんって『書く人』ですよね」と言われる。写真の人じゃないよ、まあ、そうなんだろうなと思う。だから推敲にあたることも書く時の方がちゃんとやっている気がしている。写真ってぶっちゃけ、それまでの自分を越える写真を撮りたいと思ったらある程度財力がないとできないことだけど、文章は自分の脳内さえしっかりしていれば書ける。ただ双方に共通することは精進していこうという気持ちなのでしょう。そしてその炎がなくならないように自分を鼓舞することも必要で。

と、何だか振り切れないことばかりつらつらと書いてしまいましたが、最終的には人間性が全てだと思っているのでその軸はぶれさせずに行きたい、行けるといいなと思う今日この頃です。

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