パンドラの匣の底に残ったものは  〜自己紹介に代えて〜

サイトを作るにあたって何かしら長めの、あなたという人間の人となりがわかる文を書いてみてはどうかと、コンサルから提案があった。いわゆるありきたりの、何年に何をしてこれをしてというプロフィールもあるにはあるが、平凡に生きてきたのですぐ書き終わる。それだと表面的なことしかわからないから少し長めに書く必要がありますよと言われ、戸惑いながらもキーボードに向かっている。

そんなわけで自分の人生を紐解いてみると、そもそも大学で英文学科に進学した時点で間違っていた気がして仕方がない。母校の日本女子大学附属高校はいい学校ではあったけど、入学した当初はすごく落胆していた。生まれてからの15年間で私が培ってきたものとは違う世界がそこにあったからだ。

高校は、受験して入ってきた人たちと、附属の中学から上がってきた人たちとで構成されていた。附属中学から来た人たちは何故皆こんなに浮かれているのだろうかというくらい華やかで派手で、自信に満ち溢れていた。幼稚園や小学校から私立に通うということはそれだけ家が裕福で、そういう家の子たちが互いに阿吽の呼吸で時間を過ごしているんだから最初はなじめなくて当然なのに、初めて見る華やかな人たちに圧倒され、一生懸命勉強してきた代わりに思い切りダサい自分が馬鹿みたいに思えていた。

学年の中心にいるような華やかな子たちとは大した接点はなかったけど、それでも時が経つにつれて徐々に仲良くなれる子も増えた。高校から大学へはよほど素行が悪いとか成績が底辺でなければ内部推薦のエスカレーターで進学することができていたから、大学受験に向けての悲壮感のような雰囲気は校内にはない。学年で1割くらいいた、他大学を受験する子以外は、部活に、学校行事に、アフタースクールにと青春っぽく精を出していた。

このまま流されて、エスカレーターで上の大学に行くのかも。のほほんと過ごしているうちに高3になった。内部進学の学科の希望を問われた私は迷いなく英文学科と回答した。理系の科目が全くできなかったのでそちら方面は論外、家政系の学科も花嫁修業っぽくてなんか違う、そして英文学科という響きが何か心地いい気がする。

ふわふわした感じで英文学科を第1希望に出したはいいけど、実はどうしようか迷っていた学科があった。同じ文学部の国文学科もいいなと思っていたのだった。国文学科に進もうかどうしようかと考えていたのは幼少のころから本を読むことが好きだったのと、小学6年の時に塾の国語の先生に言われたことが忘れられなかったからだ。

「あなたは、文才があるね」

そうなのかな。小学生の時に言われたことが今もこうして記憶に残っているとは何と恐ろしいことだろうか。何故そんなことを塾の先生が言ったのかは覚えていないし、言われたからといって中学高校を通じてなにがしかの創作をしたわけでもない。大したことをしてはいないけど、その一言が自分の進路を左右するとは思いもしなかった。

そんなに気になるなら英文学科じゃなくて国文学科に行けばよかったのに。しかしそこで進むことを躊躇する理由があった。英文学科希望者には仲のいい子たちが多いのに対して、国文学科希望者は知っている人がほとんどいなかった。むしろ自分が苦手とする、小学校あたりからずっと附属の、恐ろしく派手な集団の子たちが国文学科を希望していると知ったときに、なんとなく重い気分になった。この人たちの中で4年間やっていくのは無理かもという気持ちは、私を国文学科から遠ざけた。

こうして英語が好きでもないのに英文学科に入学し、履修をそつなくこなして単位を取り無難に卒業はしたが英語を使う職場に就職したわけではなく、そこから先はほぼ英語を使わない環境で過ごすことになった。学生時代はそれなりに一生懸命やってはいたけど、結局今に至るまで英語は大して役に立ってはいない。

そこからはものすごく平凡に生きていた気がしている。

平凡に家庭を持って子どもを持って、何となく社会復帰もして、傍から見れば着々と時を積み上げてきたのかもしれない。それでも、自分の中に何となく釈然としない想いがあった。パンを作ったり、映画をたくさん観たり、少しでも条件のいい仕事を求めて転職をしても長い目で見たらその場限り、何をしても納得できない。要するに、腰を据えて何かに取り組んでみたいものがなかった。

そんな折、文章を勉強する機会が訪れた。2005年からブログこそ書いてはいたけれど、全く自己流でしかなかったし、ブログやSNS特有の馴れ合いみたいなやりとりも正直あまり魅力を感じてはいなかった。天狼院書店のライティング・ゼミは、書いた文章は「合格ならWEBに掲載、不合格ならボツ」という単純明快なシステムで、プロとして実績のある人からフィードバックを受けられるのも公平に感じていた。自己満足では嫌だ、きちんとした正攻法で認められたい、そんな気持ちが沸き起こってくるのを感じていた。

そこからは毎週5,000字ほどの文章を書いた。書いては時に載り、時にボツになることを4年ほど続けてきた。進路選択の時に国文学科に行くことを選ばなかった自分の中には、ずっと何かを書いてみたい気持ちがくすぶっていて、それをちゃんと燃やせば燃え上がって来ることに少し感動もしていた。毎週書くことの中で培ってきたこともたくさんあった。どこの誰ともわからない私に連載の機会をいただけたこと、取材のチャンスも多くいただけたことに至っては誠に感謝しかない。

取材を続ける中で記事中に入れる写真が不可欠と悟って、写真を学ぼうと思い立ったことも大きな転機だった。それまでブログやInstagramにも写真を撮って載せていて「どの角度から見たら最も美しく見えるか」などと考えてはいた。それは単に見栄えを良くするためだけの、SNSでいいね! をたくさんもらいたいがためだけの写真撮影でしかなく、そこに加えて基本的な写真の技術やカメラの操作を学び、1年間みっちり毎週に近いペースで人を、モノを、景色を撮った。多くの撮影を通じてわかったことは「写真とは撮影者の内面を映しだすものである」ことだ。同じ人を複数人で撮っても1つとして同じ写真がないわけで、あるものを見た時の感じ方は唯一無二であることを写真から学んだ。

文章も写真に似ていて、その時その人にしか捉えられない感覚で文体を決め、構成を決めて書くことで他にないものが生まれる。書いていく中で「もっとこんなふうに書いてみたい」「こういう文体にしたい」という欲が出てきた。高校の大先輩の作家・円地文子先生のように、目の前にその風景が浮かび上がってくるような緻密な描写を狙ってみたい。もっとエモい書き方はないものか。そんなことを探るのも面白くなってきた。

文章と写真。この2つを学ぶ機会を得たことによって、この組み合わせがもたらす効果を知ってしまった。感覚と視覚、双方から1つの物事を描くことで生まれる相乗効果を、他でもない自分だけの表現をすることの楽しさを知ってしまった。それまで何となく生きてきた人間がようやくパンドラの匣にたどりついたのだ。

それは若き日に不確かすぎる理由でしか進路を決めなかった自分が今、ようやくたどり着いた答えなのかもしれない。誰かの目を気にしているからやらないとか、自分にはそんなことはできないからという理由で、匣の底まで中身をきちんと見ようとせず間違った方向にしか行けなかったこれまでの自分とは別れよう。人生の残りの日々は、ただ己がこれだと信じることだけを表現する。それを宣言することで、このサイトの礎に代えさせていただきたい。

2023年8月
秋に向かう暑い風が吹く、うだるような日に

河瀬佳代子

<主な実績>
2019年8月〜天狼院書店ライティング・ゼミ、同ライターズ倶楽部参加
2020年9月〜天狼院書店ライターズ倶楽部「READING LIFE編集部」公認ライター
2020年9月〜「Web READING LIFE」にて、湘南地域を中心に神奈川県内の生産者を取材した「魂の生産者に訊く!」連載開始
2021年1月〜 LOCAL LETTER 記事掲載 
2021年6月〜 華僑4世のおすすめスポットを取材した「『横浜中華街の中の人』がこっそり通う、とっておきの店めぐり!」 連載開始
2021年11月 雑誌『READING LIFE Vol.3』掲載
2022年2月〜NOHAIRS 記事掲載
2023年6月 湘南天狼院カフェギャラリーにて写真展「REFLEX」開催
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