映画『笑いのカイブツ』 / 魅入られてしまったが故に

認められたい、その欲だけは人一倍あるのに、そこから先がいつも広がらない。同業のあいつは調子よくやっているけど、自分にはそんなことできやしない。絶対に無理だ——そんなジレンマを抱える人間は山ほどいる。それがもしもクリエイティブの世界、ことにお笑いという非常に特殊な世界の人間だったらどうなるのか。

大阪。何をするにも不器用で人間関係も不得意な16歳のツチヤタカユキの生きがいは、「レジェンド」になるためにテレビの大喜利番組にネタを投稿すること。狂ったように毎日ネタを考え続けて6年——。自作のネタ100本を携えて訪れたお笑い劇場で、その才能が認められ、念願叶って作家見習いになる。しかし、笑いだけを追求し、他者と交わらずに常識から逸脱した行動をとり続けるツチヤは周囲から理解されず、志半ばで劇場を去ることに。
自暴自棄になりながらも笑いを諦め切れずに、ラジオ番組にネタを投稿する“ハガキ職人”として再起をかけると、次第に注目を集め、尊敬する芸人・西寺から声が掛かる。ツチヤは構成作家を目指し、上京を決意するが——。(公式サイトより)

自分が築きあげてきたものは簡単に安売りしたくない。しかし「自分は実力があるはずだ」と自負するところで立ち止まって考えないといけないのかもしれない。理由は言うまでもなく、評価とは他者が下すものだから。そしてその評価の内容には、残酷なことに、作品以外の要素も含まれることもある。観客はある意味部外者であり、作品そのものだけを見て評価をするけど、内部の人間はそうはいかない。

あいつはこういうやつだ、こんないい人だ、嫌なやつだ。評価にあたっては作品そのものだけではなく、クリエイティブの人間性も大いにバイアスがかかってしまうところが、特に「業界」では多いのだろう。だから忖度などという嫌な風習がいつまでも止まない。あの人に気に入られないと上にいけない、チームでやるからには多少なりとも我慢しないといけない、たくさんの「〜〜しなければいけない」がツチヤをさらに頑なにしていく。

映画の中のツチヤというキャラクターを、観客側は段階を経て徐々に十二分に理解していっているつもりでも、実際にツチヤ的な人間と一緒に仕事をしなければならなくなったときにどう反応していくのだろうか。あいさつをしない、礼を言わない、問いかけに答えない、同じセクションのメンバーと交わらない、主義に沿わない意見には真っ向から反論する人間をリアルで理解しなさいというのも、かなり難しいことは想像がつく。

常識や協調性を重んじる日本ではツチヤ的な人物は真っ先に疎外される。そんなツチヤに声をかけた西寺もピンクもある意味アウトサイダーである。世間は遠慮なくツチヤを裁くのに、なぜか放っておけないのは、西寺もピンクもツチヤの中に過去の己を見出しているからなのだろう。だから彼が辿ってきた苦しみを理解できる。生き残るためには人間関係だらけの嫌らしい世間から評価されないといけない、その苦しみをわかる人間はどれだけいるのだろう。

ひとつの才能には魅入られているがそれ以外の要素で著しく受け入れ難い人間がいたとして、素直にそのことを認める度量があるのか、それとも弾き飛ばして本人の気力を削いで永遠に才能を封じるのか。そのことが「世間一般」には問われている。最もどんなに潰されたとしても、魅入られてしまった人間は地の底から這い上がってくる。何度でも、どんな場所からでも。そのことだけは間違いがない。

映画『笑いのカイブツ』公式サイトはこちら。

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