随分前から「コミュ障」というワードはあるけど、最近は「コミュ障なので」と一言言えば全て免除になることが多い気がしている。そのこと自体がいいのか悪いのかは別として、コミュ障という言葉自体が市民権を得つつあるから、例えば不登校や引きこもりになったとしてもコミュ障だからといえばそれで許されている。
映画『658km、陽子の旅』の冒頭で描かれる陽子の部屋は、断片的に見ただけで既に怪しい。薄暗い室内に古びたスウェットを着た陽子が向かうPCには、企業のHPによくあるチャットの「中の人」の操作画面がある。案外お問い合わせ画面の向こう側はオフィスではなく、こんな光景なのかもしれない。必ずしも企業に出勤する必要もないし、これならコミュ障でもできる。でもその対応たるや塩もいいとこで、何のために問い合わせたか意味がないくらい。確かにこれじゃ「最悪」としかフィードバックしたくなくなるのも無理もない。
別に外界と接触しなくたって生きていける時代だし、それでちっとも困らない。やりたいことをしたい時にする毎日、そんな生活のリズムが予告なく乱される出来事があったら、果たしてそれにどの程度従いたいと思うのだろうか。
42歳 独身 青森県弘前市出身。人生を諦めなんとなく過ごしてきた就職氷河期世代のフリーター陽子(菊地凛子)は、かつて夢への挑戦を反対され20年以上断絶していた父が突然亡くなった知らせを受ける。従兄の茂(竹原ピストル)とその家族に連れられ、渋々ながら車で弘前へ向かうが、途中のサービスエリアでトラブルを起こした子どもに気を取られた茂一家に置き去りにされてしまう。陽子は弘前に向かうことを逡巡しながらも、所持金がない故にヒッチハイクをすることに。しかし、出棺は明日正午。冷たい初冬の東北の風が吹きすさぶ中、はたして陽子は出棺までに実家にたどり着くのか…。(公式サイトより抜粋)
未来永劫自分のテリトリーから一歩も出ずに暮らしたいような人が明確な意志を持ってその部屋を出るときは、近所のコンビニに行くだの、生活に必須だから外出するのとは訳が違う。その人を動かすものの正体は人によって違うけど、「ずっとそこに留まりたい」から「そこから動かなければいけない」、しかも東京から658kmも離れた場所に行かねばという衝動はかなりのものであるはずだ。
普通の感覚だったら親の葬儀は一大事で、急死ならともかく以前から親の具合が悪そうだ、もしかしたらお別れかもしれないと思えば心の持ちようもある。それを前触れもなくいきなり聞かされたら仰天するのが当然だけど、もしも親が原因で深く傷ついている、嫌な記憶しかないとしたら、飛んで行かなきゃという気持ちにはなれないのではないだろうか。
従兄に引きずられるようにしてアパートを後にした陽子は、運悪くサービスエリアで従兄一家とはぐれてしまってもなお実家を目指す。しかもヒッチハイクで。海外ならともかく日本ではヒッチハイクの文化はなかなか見かけないし、よほどのことがなければヒッチハイクで遠くに行こうだなんて思わない。
父親の葬儀に何がなんでも間に合わせないとと先を急ぐ陽子の、亡き父に対する感情がところどころ描かれる。あるときは親しげに、またあるときは意味もなくたたずみながら、父の幻影が出てくるたびに陽子は悪態をつく。どれほど傷ついていたのか、苦しみを吐露しながらも進むことをやめない。20年以上も連絡を取らず、そんなに父のことが嫌いなら「葬儀には行かない」と言ったってよかったのに、そうはしなかった陽子の本当の気持ちは何なのだろうか。
昔、独身の頃、父のことがどうにも好きになれなかったことがあった。よその父親と比べて洗練されていないとか、やたら説教をするとか、口うるさいとか、理由は様々だったけどとにかく父の小言を聞きたくなくて早く結婚しようと思ったものだった。それがどうだろう。何十年も経った今、思うことは、なぜあの時あんなに父のことが好きじゃなかったんだろうということだけだ。まるで熱病にかかったかのように父親が好きじゃなくなるのは若さゆえの過ちなのかもしれない。
今でもなお年老いた父は頑固で、より一層口うるさくもなったけど、たまに顔を見に行くとその頑固さとは裏腹に、優しいこと、矛盾したことを言う。それがどことなく寂しさも孕んでいることに気が付く。最近は思うように身体が動かなくなってきてと時折こぼすこともあってか、今まで貫いてきた頑固の殻も少しずつひびが入ってきているのかもしれない。もっと素直になりなよお父さんと思ってもなかなかそうはなってはくれないけど、やっぱり心の底ではどんなに頑固であっても気に掛かるのが一親等の関係なのだろうか。
誰かが聞いていようがいまいが、今、それを言わないと一生後悔する。そんなシーンが時折人生には登場する。日頃はそんなことはないと突っ張っていたとしても、どうにも抗いがたい何かを人は何かしら抱えている。658kmの道中、困難に見舞われながらも父の元へ進む陽子が次第に自分の中に抱えるものの正体を見つめる過程は、一層激しく降りしきる粉雪のように観る者の心に刺さっていくのだろう。