『ナイトビッチ』@第37回東京国際映画祭 / 押し込めた本能を解放せよ

あれ? 私が知ってるエイミー・アダムスじゃないんだけど?

『ナイトビッチ』の最初のシーンで咄嗟にそう感じてしまう。私の記憶にあるエイミー・アダムスは『魔法にかけられて』の可憐なお姫様だったり、『サンシャイン・クリーニング』や『メッセージ』のように勇気がある女性だったりしていたけど、『ナイトビッチ』のエイミーはよく言えば「ゆるく」、悪く言えば「たるんで」いる。

出産を機にアーティストとしてのキャリアを諦め、専業主婦になったひとりの女性。自分の人生に悩む彼女はある時、退屈な子育てに埋没する日常のなかで、自分にシュールな変化が起きていることに気が付く。(第37回東京国際映画祭公式サイトより)

見た目は生き方を表すのかもしれないけど、そして役作りなのだろうけど、エイミーの身体のたるみは見事なまでに閉塞感に包まれて生きる主婦を表現していた。「自分は今、どうしてこんなことをしているのだろう」「これは自分が本当に望んでいた生活なのか」そんな疑問と不満を抱えながら日々を過ごしていると、仕方がないと言い訳しながら、そう思いながらも、摂取しなくてもいい余計なカロリーをついつい取ってしまうのだろうか。身に覚えがあるだけに恐ろしいものを見せられている気がしてくる。

自分で選んだはずの人生でも思い通りにならないことなんて山のようにある。こんなはずじゃないと思う心の内をパートナーに打ち明けて棚卸しをしたように見えても、実は自分の真意を伝えきれていなかった。その理由は彼女の中に、半ば遺伝子的に組み込まれている本能なのだろう。彼女の母もまた彼女と同じように、自分に言い聞かせるように自分の夢を封印していた。

これまで女性たちの多くは「自分としてこうありたい」と願う本能を、社会の慣習や、周囲の思い込み・封じ込めによって閉ざされてきた。長いこと行われてきたその諦めの代償は、経済的・社会的損失として数字にも表れているほど実は計り知れないものである。そして失われた数字よりももっと深刻なのは自己実現の機会を見送ること。その怒りをマグマのように、メタモルフォーゼの形で噴出させて見せてくれたのが本作である。

彼女の夫は彼女のことを理解しているようでも、「彼女が言うんならいいんじゃない?」くらいの浅い理解でしかない。本人がそう言うのだからいいに決まっている、確かにそうだけど、その言葉の裏にある真意までは見てこなかった。

彼女は本当はどうしたいのだろうか? そこまで気がついていないパートナーは多い。その人を好きになってしまったからとか、家族のため生活のためだから仕方がないと自分に蓋をしてやり過ごしている自分自身もまた、本能を失う原因になってはいないだろうか。沸々と湧いてくる本能にどれだけ向き合っているのか? それを本当に大事にしてきたのか? そんなことを感じさせる作品である。

『ナイトビッチ / Nightbitch』 日本公開未定
第37回東京国際映画祭公式サイトはこちら

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