人と人が出会って一緒に暮らす。それなりに毎日は楽しいし、この人こそ生涯のパートナーとも思えている。でもよく考えてみたら相手のことを何も知らなかったのではないだろうか……。
出会いの形もマッチングアプリやSNSが当たり前になってきた今、職業や生い立ちはおろか、名前すら知らなくても人との関係が築けてしまう。オンラインだけでなく、リアルでも自分を全くの虚偽で固めて生きることだって可能なのだ。現代のけものみちに迷い込まざるを得なかった人にスポットを当てたのが、映画『市子』である。
川辺市子(杉咲 花)は、3年間一緒に暮らしてきた恋人の長谷川義則(若葉竜也)からプロポーズを受けた翌日に、突然失踪。途⽅に暮れる⻑⾕川の元に訪れたのは、市⼦を捜しているという刑事・後藤(宇野祥平)。後藤は、⻑⾕川の⽬の前に市子の写真を差し出し「この女性は誰なのでしょうか。」と尋ねる。市子の行方を追って、昔の友人や幼馴染、高校時代の同級生…と、これまで彼女と関わりがあった人々から証言を得ていく長谷川は、かつての市子が違う名前を名乗っていたことを知る。(公式サイトより)
リアルで、SNSで、私たちは人と接点を持つ。そこで明かす情報の精度は様々だから「この人にはここまでの情報を開示する」的な制限は誰でもかけているはずだ。しかし、もしも絶対に誰にも明かしたくない、明かしてはならない過去があるとして、でもそれをどうしても明らかにしなくてはならない事態になってしまったら、どうすることが最善なのだろうか。
市子は、人生のポイントにおいて、秘密にしなくてはいけないことを明らかにする必要性が生まれる都度、その場所から逃げる選択肢を取ってきた。どんなにその場所に愛着があって、どんなに支えてくれる人たちがいてくれて、どんなにそこでの居場所を作ることに苦心してきても、である。そこで素性を明かすことは彼女の生存にも差し障りがあることはよくよくわかってはいるから、だから逃げざるを得ないのも仕方がないのかもしれない。
それは当事者にしかわからない感覚なのだろうから、そこをとやかく言うつもりはない。でも、どうにか彼女を救ってあげることはできなかったのだろうか。3年間同棲した長谷川が追ってくれたことが救いなのかもしれないが、もう一つの「手」かもしれない北くんの行動は、市子を救っているようで実は彼女をさらに闇へ誘ってしまっていたかのようにも受け取れる。
長谷川のように支えてくれる人がこの先現れたとしても、市子はこの先も漂いながら生きていくのだろうか。愛される幸せを手に入れたのに、それを瞬時にして突き放してしまうほどの警戒心が上回る宿命を持たざるを得ない人も、世の中には存在している。どんな正解も、市子を完全に救うことはできないのだろうか。いつか人生を振り返った時に後悔だけが残ることから逃れることができればとは思うが、それもその人次第でしかないところに歯痒さと切なさが残る。